部屋の中は薄暗く、ほこりっぽかった。中はがらんとしている。
部屋の奥の右隅に観葉植物があり、中央奥には大きなテーブルがあった。
目を凝らすと、そこに占い師らしき人物が座っているのが見えた。
薬草のような妙なにおいが、あたりに漂っていた。鼻がツンとする。その香りに混じって、毛皮のようなにおいもする。その匂いを嗅ぐと、ふわふわするような、懐かしいような、不思議な感覚にとらわれた。
渡は気を取り直すと、おずおずと、占い師の方へ歩いていった。
衣装のせいか、占い師の顔は口元しか見えなかった。爪がかなり伸びていて、テーブルの上に置いてある水晶玉に手をかざしている。その爪には、赤いマニキュアがたっぷり塗られていた。
「あのー……占いの看板を見て来たんですが……」
占い師はじっとしたままだ。生きているのか死んでいるのかすらわからない。なんだか不気味だ。だんだん、こんなところに来たのは間違いだったという気持ちが強くなってきた。
(どうかしてた、こんなあやしいところにくるなんて)
もう帰ろうとした時、占い師の口が、わずかに開いた。
「こいつをのぞいてごらん」
高い声。やはり女性のようだ。
占い師は、水晶の上にかざしていた手をどけた。
さっきから気になっていたのもあって、渡は水晶の方へ、顔を近づけた。
ところが、どうもおかしい。
その水晶は、まるで墨でもかかっているかのように中が真っ黒なのだ。
不思議に思ってさらに水晶をのぞき込んでみると、小さな白色の丸い点のようなものがところどころに見えた。まるで星をとじこめているかのようだ。
美しさのあまりじっと見ていると、その星がすこしずつ動き出した。
そのうち、ある一つの星が、徐々に大きくなってきた。
その星は地球のように青く、美しかった。星はどんどん近づいて、やがて雲が見え、山が見え、街が見え始めた。
街の建物が、次第に大きくなってくる。ついには人も見え始めた。
奇妙な丸い乗り物が空を浮いている。空をサーフィンをしている男が、巨大なクラゲのような乗り物を避けた。大きな球体が道の上を跳ね回っていて、よくみるとその上には、毛むくじゃらの生き物が曲芸師のように乗っていた。ゴーッと空飛ぶ電車が矢のように飛び、空中にうかぶ大きな長靴からは、空中から木に向かって水がそそがれている……と、その時だった!
渡の体がぐいっと引っ張られたかと思うと、水晶玉の中に吸い込まれた!
渡は、おもわず目をつむった。その時まさしく、渡はその街の地面に立っていた!
◇
「どいて~!」
空中を走る赤い自転車にのった女の子が、渡めがけて突っ込んでくる!
「わぁっ!」
すばやくかがむと、そのとたん、背中をぐいっ! と引っ張られるような感覚があり、うしろ向きに倒れこんだ。
自転車は渡の頭があった場所をスーッと通り過ぎた。少し上空へ逸れたところで、ようやくブレーキがかかったらしく、空中にピタリと止まった。自転車には赤いパナマハットのような帽子をかぶったショートカットのかわいい女の子が乗っていて、こっちをのぞき込んでいる。
「大丈夫?」
女の子が、渡の方に手を差し伸べた。思わずその手を握ると、ぐっとひっぱられて立ち上がった。ところが、女の子があんまりかわいいので、渡はドギマギしてパッと手を離した。
「当たらなかったから平気だけど——気をつけてよ」
「ごめんね」
女の子のズボンのあたりから、虫のような何かがぴょんと落ちてきた。女の子は、それだけいうと、さっさといってしまった。渡はその後姿を、あっけにとられて見送った。
「——そんな馬鹿な! 自転車が空を飛んでる? ここは一体……」
すると、すぐ足元から低い声が聞こえてきた。
「馬鹿なとはなんだ? 馬鹿なとは。おかしななことなど一つもないだろ? ちぇっ! くたびれちまった」
急いで声のした方を見ると、靴紐の上に、ネズミくらいの大きさの灰色のオオカミ人間が、仰向けに寝そべっていた。狼人間は頭の後ろで手を組み、さらに足も組んだまま、悠々と渡を見上げている。どうやら男のようだ。
「ちいさいのも楽じゃないぜ。——おっと! 動くなよ」
灰色のオオカミ男は靴紐の上に立つと、だんだん、だんだん、大きくなってきた。同時に、渡の足には重みがずんずん加わってきた。
「いたいっ! 踏んでる!」
「おや!」
オオカミ男は渡の足からとびのくと、握手をもとめた。
「こんにちわん! ……なーんちって!」
渡は、オオカミ男を怪訝そうにじろじろ見た。
(オオカミ男の……着ぐるみかな?)
なんにせよ、このオオカミ男が話しかけてくれたのは、渡にとってありがたい事だった。もしそうでなければ、空飛ぶ電車や、本物のロケット鉛筆、クラゲのような巨大な飛行物体が突然透明になったこと、空中を浮かぶビルの群れや飛んでいる家、それにウミウシのような形の乗り物がゆっくり空中を漂っている光景を見て、パニックになってしまったことだろう。
「あなた、人間?」
「もちろん!」
「そうだよね。びっくりした~! まるで人間じゃないみたいだもん」
オオカミ男は、吟味するような顔で渡を見た。
「さっき突然現れたけど……あんた、迷子?」
オオカミ男は、まるで赤ずきんを相手しているかのように、べろっと舌を出した。
「そうかも……」
すると、オオカミ男の顔がパッと明るくなった。
「そうか! じゃ、おれんち来いよ。おれ、ルーキオっていうんだ」
「わかった、ルーキオ」
ルーキオは、渡の素直な返事が気に入ったのか、満面の笑みを浮かべた。
「ところでおまえ、ジャンプはできる?」
「えっ?」
「ジャンプだよ。高くとびはねること」
渡は戸惑った。ジャンプくらい、だれだってできるに決まってる。
「できるよ。ほらっ!」
渡はかばんを背負ったまま、その場でぴょんぴょんはねた。すると、ルーキオは呆れた表情で渡を見た。
「なんだ、それっぽっち? いいか、見てろよ」
ルーキオはそういうと、ググッとしゃがみこんだ。ふとももはパンパンに膨れあがっている。
「それっ!」
ルーキオはまるでロケットのようにびゅーん! とはるか上空へ飛んでいった。渡は空を見上げたが、もう豆粒ほどの大きさにしか見えなかった。ルーキオは、はるか上空に浮かんでいるビルにつかまったようだった。
◇
一方、当のルーキオは、ビルの屋上に座って、はるか下にいる渡を見下ろしていた。
「なんだかおかしなやつだな。おれのことを、人間かどうか確かめるだなんて……ジャンプもろくにできないし、まさか、変身能力を身につけていないのか?」
ルーキオは独り言を言うと、ちょっと視線をそらして通りを見た。するとそこに、カエル好きで有名な、ケロール博士が歩いているのが見えた。ちょうどカエルに変身している。ケロール博士が瓶のようなものを取り出し、ふたを開けると、そこから雨雲がもくもく湧き上がってきた。
「よし。聞いてみよう!」
◇
ルーキオがひゅーんと飛び降りてきて、渡のとなりにダンッ! と着地した。渡の方に地面の石がばっと飛び散り、着地のはずみでぴょこんとしっぽが生えたのが見えた。
「おっと、しっけいしっけい!」
ルーキオはにやにや笑っている。反省などまるでしていない。
「——それにしてもあんた、変身能力ないの?」と、ルーキオがだしぬけに聞いた。
「変身能力?」
「変身能力さ。もちろん知ってるだろ?」
「……知らない」
すると、ルーキオは怪訝な顔で渡を見た。
「知らない? 俺たちは、変身能力さえあれば、なりたい生き物になんにでも変身できるようになるじゃないか。変身した体じゃ、筋力の強さや骨の強さも思いのままだ。タワーの上までジャンプしたり、100m先の豆粒もらくらく見えるようになる。常識だぜ?」
「そんな馬鹿な!」
「特別な細胞に体を作り替えるんだ。ほら、こっち来てみろよ」
ルーキオは大きな手で渡の腕をつかむと、ケロール博士のそばまで連れていった。ケロール博士は二人を気にも留めず、頭の上にできあがった雨雲から落ちる雨粒をあびて楽しんでいる。
傘は開いていたが、その傘は頭の後ろで横倒しになっていて、何の役にも立っていなかった。
「雨! すばらしい!」
カエルの顔をした男は歓喜の表情で、とうとう傘を放り投げるとばんざいして上を向いた。その顔に、大粒の雨がパラパラと降りそそいでいた。
「彼はケロール博士。変身技術の第一人者で有名なケーロ・K・ロッピン博士の子孫、彼自身も変身の研究者だ。知ってるだろ?」
「知らない。……あれも着ぐるみでしょ?」
◇
ルーキオは、ますますあやしげな顔で渡を見た。
(しかしこれはどういうことだ?
何もない空間から、こいつは急に現れた。
透明化していた様子もないし、ワープだとしても、時空のゆがみが少しもない。
記憶喪失か? 脳の何らかの異常?
だが、それにしても何も知らなさすぎる。変身能力のことも、ケロール博士のことも知らないとは! いや、知らないばかりじゃない。こいつの体はなんの能力も持ち合わせていない。
病人? 未来人? 異世界人? それとも、全部演技しているだけのタヌキ野郎か? そして何より、着ぐるみとは……? いずれにせよ、見極めねばならない。誰とも知れない、こいつの正体を!)
ルーキオは、渡がケロール博士を眺めている間にすこしばかり考えがまとまった。